02

3月

2010

『会社という学校』

 大学を出て、フリーターをしていた、初めての冬、地下
鉄の中でふいに涙がこぼれて止まらなくなった。「私は何
をしているのだろう」と。翌日から、就活を始めた。
 小さな映像制作プロダクションに拾われた。変わった会
社だった。みんな、見事にドロップアウトした人間ばかり
だった。芝居なり映画なりに夢中にならなければ、名の通
った会社に入れる学歴を持っていた。

時は、後にバブルと言われる波が立った頃。入社して一
年の間、私は、本や雑誌を読むのが仕事のようなものだっ
た。社長がフルートを習い始めていたので、下手くそなそ
れをご拝聴するのも仕事だった。
 編集室が空くと、声がかかった。私はタイトルの書かれ
たメモを持っていそいそとビデオレンタル店に走った。『
オール・ザット・ジャズ』『ファンタンゴ』『羅生門』等
々を私は、そうして観た。ある日、ノックを忘れて編集室
を開けたところ、画面に巨大フランクフルトフルトソーセ
ージが映っていた。何画面も。社長はじめ男連中が雁首そ
ろえて、裏ビデオをご鑑賞中だった。
 仕事は、仕事をすることで覚えていった。一度だけ、営
業担当の常務に叱られた。「原稿なんか夜書け。昼間やれ
ることを優先しろ」
 企画書が分厚い時代だった。出勤すると、先輩たちが、
「俺たちは肉屋かあ?」「グラムいくらで売る?」と、徹
夜明けのハイになった状態で、じーこじーこと音を立てる
ドット・プリンタの前で笑っていた。内容は遜色ないはず
なのに、大手広告代理店に負けるのが常だった。なぜ? 
と聞く私に、社長はこう答えた。
「もし、うちに発注して、何かトラブルがあったら、それ
はうちを選んだ担当者の責任になる。大手であれば、仕方
ないで済んでいくことでも」
 社長は国営放送をドロップアウトした人間だった。自分
の入局年次が私の生まれた年と同じである偶然を嬉しそう
に話した。私が書いた脚本が名古屋局で認められたとき、
誰よりも喜んでくれたのはこの人だった。もう20年も昔
のことである。
 周囲からは「あそこは会社ではなくて学校」と言われた
会社は倒産して久しく、社長も亡くなったと風の便りに聞
いた。「いい時代だった」と一括りにできない何かが、私
の中に残った。
 私は今、私が出会った頃の社長と同じ年齢になっている。

恵まれた時代に恵まれた環境の中で仕事を覚えたことを
誇りに思う一方、次代に渡せない自分を情けなく思ってい
る。このコラムは、そんな私の申し訳でもある。
 俗に『会社の看板』というが、それを背負うことを良し
としなかった、気風が、私の一番好きな風だ。