02

4月

2010

『夜の言葉』

 実はファンタジー好きである。それも、ハイ・ファンタ
ジーと呼ばれる異世界ものとダーク・ファンタジーと呼ば
れるアングラもの。後者のお勧めは、何といっても、ジョ
ナサン・キャロル。テイストは小川洋子を硬質にした感じ。
セオドア・スタージョンも、ダン・シモンズも、P.K.ディ
ックも好きだ。あ、この辺りはSFか。

  ハイファンタジーの筆頭は『指輪物語』(小6で制覇)
か、『ナルニア国物語』(小1で制覇)になるかと思われ
るが、大切な一冊を忘れていた。『ゲド戦記』だ。
 実はこれは大人になってから読んだ。後輩に、「え、読
んでないんですか?」と言われて、「そんなものが世の中
にあるのか」と驚いたが、邦訳の出版が1976年と知って安
心した。なにしろ中学生になったので、ファンタジーは一
端卒業していたのである。ま、完全な負け惜しみだが。こ
の後輩にはもう一冊、「え、読んでないんですか?」と言
われた本がある。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』。
これについては、「あいつはイスパ(ニア語科)」だから
と納得した。私は、負けず嫌いさんである。
 閑話休題。
 『ゲド戦記』には「影との戦い」という副題がついてい
る。実に示唆に富んだ名作だ。白か黒、正義か悪、「一番
か、そうじゃないか」という価値観を持ってしまいがちな
子どもという生き物に与えるべき必読書である。
 標題は、その作家、A.K.ル・グィンのエッセイ(評論)
集のタイトル。同じ頃、ミヒャエル・エンデも読んでいた
私は、「良質な物語は、哲学が芯にある」と確信した。
 実は、私は、子どもという生き物の多くが本来はそうで
あるように、哲学的であった。違っていたのは、高1にな
るまで、哲学的であったことだ。「人はなぜ、生きるの 
か」という、生きるためにまったく役にたたない命題とつ
ねに戦っていた。だが、ある日、学校の倫社の授業で、お
勉強としての哲学に初めて接し、「千年以上も前に私と同
じことを考えていた人がいたなんて。。。馬鹿馬鹿しい。
やーめた」と、哲学を捨てた。なんといっても、私は負け
ず嫌いさんである。
 私は、「お馬鹿さん」になって、高校生活を謳歌した。
大人が考えるような「青春」をした。本を読むのもやめた。
次に本を読むようになるのは、高校3年になって友だちが
無理やり貸してくれた『桃尻娘』からだった。「ここに私
たちの言葉がある、感情がある」と思った。読んだ人はお
わかりだと思うが、つまりは、そんな高校生だった。知ら
ない人には、お教えするが、この作者・橋本治も哲学者と
言っていいだろう。『とめてくれるな、おっかさん。背中
の銀杏が泣いている。男東大どこへ行く』というポスター
を作った人物としても有名だ。
 光のあるところ、つねに影ができる。喜ぶ人がいれば、
悲しむ人もいる。得るものがあれば、失うものもある。そ
れを最初に教えてくれたのが、『ゲド戦記』だった。
 ちなみに、ラテンアメリカでは、マジック・リアリズム
と呼ばれる文学が発達した。政情不安が常態で、自由に物
を言えない国々の人々は、物語に、詩に、自由を求めた。
「ファンタジーは夜の言葉」。A.K.ル・グィンは、フェミ
ニストとしても高名である。