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5月

2010

『丁寧に生きるということ』

 実は、手仕事が好きである。編み棒を持てば、お猿もか
くやというばかりに、延々とやっている。ミシンを出せば、
布の地平を黙々と進む。料理についていえば、「伊佐治さ
んの作ったものを食べると健康になれる気がする」と、糖
尿病患者に言われるほどである。

 祖母に教わった編み物は別として、後の二つは、姑から
教わった。世に「嫁姑の諍い」と言われるが、私は至極幸
運なことに、出来た姑に恵まれた。
 姑の名言。「子育ては畑と同じ。水をやりすぎれば腐る
し、足らなければ枯れてしまう」。私は無念なことに、子
どもには恵まれなかったが、姑の丁寧な生き方や、苦労の
末のさりげない言葉の端々、つまり姑の背中から多くのこ
とを教わった。
 姑は名古屋で生まれた。戦時下の疎開で、田舎に引っ越
し、そのまま、田舎の没落した名家に嫁いだ。苦労の多い
人だった。子どもを道連れにしての飛び込み自殺も計った
という。その人が「あの子はお天道さまに育ててもらっ 
た」という長男に嫁いだ私を、なぜか可愛がってくれた。
夫が言うには、「子どもの中で、お前が一番好きだったん
じゃないのか?」というほどの結びつきであった。
 姑は我慢強い人であった。そのため、早期発見なら直る
病気を見過ごした。気がついたときは手遅れ。救急車で運
ばれ、手術を受け、目覚めた姑の第一声は、「まだ、生き
なきゃいけないのかね。かんかない(面倒くさい)ねえ」
であった。
 手術から、没するまでの四ヶ月、私は毎日のように病室
に通った。姑の体調の良い日は、彼女から戦争の話を聞き、
姑の体調の悪い日は、私が本を音読して過ごした。クリス
マスリースを一緒に作り、桃の花とともにお雛さまを飾っ
た。姑の亡骸を焼いた日は、桜が満開だった。
 私の手元には、大量の布地とファスナー、ボタン、それ
から巻き簾や寿司桶、各種鍋、木べらなどが残された。姑
が作ってくれた余所行きの服も何点かある。ノースリーブ
のワンピースには、下着がずれて人目につくことを避ける
ために、鎖編みで作った留め具もついている。
 彼女の才覚に比しては、不運な人生だったと思う。「戦
争さえなかったら」と、姑も口にしたことがある。
 桜を見ると、姑のことを思い出す。と、書くと格好いい
のだが、実は始終、彼女のことは話題にのぼる。「おふく
ろはこうしてたな」「おふくろはああしてたな」と夫が言
うのは、料理についてである。
 私は、夫の「おふくろの味」が好きだ。記憶にあるそれ
を再現しつつ、自分なりのアレンジを加えてゆくのも楽し
い。野菜料理が得意だった姑の白眉は「お節料理」である。
私は、毎年、きちんと「お節」を作る。年々、凝ってゆく
それに、「キャラ弁を笑えない」と苦笑しつつ。
 丁寧に生きること。しんどいなあ、と思いながらも。所
詮、人生なんて、自己満足度評価にしか過ぎない。
 先日、お重箱にあれこれを詰めて、お花見に行った。カ
ラオケも楽しかろう、煌々と照らすライト持参の集団も賢
いだろう、コンロを持ち込むのも良いだろう。でも、まば
らな灯しかない薄暗がりの中で、お重の漆の赤黒は、巻き
寿司の海苔の黒は、やはりとても美しかった。
 タイムマシンができたなら、私は、江戸中期ぐらいのお
花見に行きたい。