08

6月

2010

『大須 七ツ寺』

 ご近所が建て替えブームである昨今、騒音を逃れるべく
私が目指すのは図書館である。県図書館も区立図書館も至
近距離だから、時として、はしごをする。

 県図書館の地域資料コーナーで、珍しい本に出会った。
七ツ寺共同スタジオの25周年誌、 300頁以上もある大冊で、
中身も濃く、半日、読みふけった。
 七ツの創立は1972年、いわゆるアングラブームの時代。
私が演劇部の新入生として、七ツに小屋入りするようにな
ったのは1981年からだから、一番熱い時期が終わりを告げ
た頃だ。北村想さんが『TPO★師団』を立ち上げたのが
79年、『彗星 '86』になったのが82年、『プロジェクト・
ナビ』になったのが86年。『寿歌』の火田詮子バージョン
に間に合わなかったのが、つくづく心残りだ。師団の役者
さんは個々の舞台では見たが、あの人々が集まった舞台が、
特別なものであったことは容易に想像できる。
 ともあれ、18才の私は、七ツのトイレ(工事現場にある
ような簡易トイレ)に入れずに近所のビルのトイレを使い、
夜更けてお使いにやらされれば、同じ一年生と、「私たち、
こんな仕打ちにも耐えているのだから、きっと社会人とし
て立派にやっていけるよね」と励まし合うという、初な小
娘だった。初舞台では、たしか、スカートをまくってブル
マーを見せたと思う。
 それが1年も経つと、防寒のため、部室にある衣装を平
気で着込み、小屋に向かうようになる。大学は坂の上にあ
ったので、授業に出るために坂を登ってくるおしゃれな女
子大生たちと、すれ違う格好になる。「衣替えしなきゃ」
と、同じ三年生と呟き合いながら、この先、自分の人生は
下り坂なのかと目眩したそれが快感だった。公演を控えて、
母が倒れ、いつが葬式なら公演に支障ないかと指折り数え
た自分にぞっとしたのもこのころである。
 当時の話は尽きないが、本題は、七ツ寺。
 七ツは、特別な場所だった。今でこそ、名古屋市の各区
図書館には劇場が併設され、アクテノンもアートピアもあ
る。しかし、私たちの時代には、七ツか鈴蘭(大曾根鈴蘭
南座)か、大学構内しか、手の届く上演の場所はなかった。
うちの大学の劇団は、多少の金銭的な無理をしてでも、伝
統的に七ツでの上演にこだわっていた。
 七ツは、プロとアマチュアがすれ違い、同じ舞台を踏む
場所だった。アマチュアがプロを仰ぎ観て憧れ、時には生
意気な批評もする一方、プロがアマチュアやセミプロに簡
単なコメントを下したりする場所だった。時には、有名劇
団の裏話も聞こえてきた。七ツを維持する苦労話も。
 小屋主の仁村さんは、幼稚園バスの運転手をしていた。
奥さんが陰で支えていたことは皆が知っていた。小栗判官
の登場人物の名をつけられた一人娘がいた。30年近くも昔
のことだ。
 今なお、七ツは健在だ。記念誌を読んで、私は入口の模
様が陰陽道の陰陽だと初めて知った。近況を知るために、
ネットで検索した。相変わらず、静かに活動的で、知性が
高い。(小屋は一層古びているだろうが)
 西尾市の活動をかいま見て、名古屋は行政の力が強すぎ
るのかもと思い始めている。人を育てるのは、人であり、
あるいは場である。
 仁村さんが最後まで芝居を観てくれた。それが、私たち
学生にとっての最大の賛辞だった。