水
18
8月
2010
寺津城と金剛院
寺津城と金剛院 <寺津町>
寺津城は西条吉良氏の重臣として栄えた大河内氏の居城で、永正年間(一五〇四〜 二一)に築かれたといわれています。大河内氏は、江戸時代には幕府の重職に任ぜられて大名となり、十三代の久綱からは松平姓を名乗りました。
大河内松平氏ゆかりの寺である金剛院の本堂南側には、大河内代々の石塔が十四基並んでいます。安政五 (一八五八)年の「寺津村絵図」には土塁を巡らした寺津城跡の南側に金剛院とともに墓所が描かれています。最も奥に建つ三基の石塔は、その形式から「関東式宝篋印塔」と呼ばれ、伊豆石が使われ、はっきりと した彫りが施されているのが特徴です。作風から室町時代末期から江戸時代初期に建てられたと推定されます。
寺津地区には金剛院のほかに、ここを発祥の地とする大名大河内氏の歴史をしのばせる神社や寺が数多くみられます。
<金剛院の宝篋印塔 こんごういんのほうきょういんとう>
寺津町金剛院は、中世寺津城主で、後に松平(徳川)氏に仕えた大河内氏(のち長沢松平家を継いで大河内松平氏)の旧菩堤寺であり、墓地には代々の供養塔が林立している。このうち最も古い3基がA:大河内信貞(普照院殿心月宗空禅定門・永禄元年/1558没)、B:信貞夫人(雪峯院殿松庵寿参尼大姉 /1595没)、C:大河内秀綱(金剛院殿雄岳宗英大居士/1618没)の供養塔で、安山岩製の関東式宝篋印塔の形式で建てられ、それぞれ戒名と没年月日が刻まれている。宝篋印塔とは、本来は宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納める木製の塔で、下より基礎・塔身・笠・相輪からなる独特の形をし、のちに石製で供養塔、墓塔としても建てられるようになった。西尾・幡豆郡一帯では本来、矢作川流域産の花崗岩製石造物が主であるが、室町時代末~江戸時代前期に集中して墓塔や石燈篭、石仏などに安山岩製の関東式のものが見られ、この時期、当地の武将らが家康に従って関東進出したこととの関連が指摘されている。この3基は没後の造立と見られ、詳しい時期は検討を要するものの、関東式石造物を代表する美しい塔であり、中世の在地城主・大河内氏の数少ない遺構である。
<上記 西尾市ホームページより引用>
<文 松井直樹 絵 榊原宏之><西尾百景は平成7年〜18年まで西尾広報に掲載されたものを再編集したものです> <にしおアートねっとでは、記事、画像について個人、美術館、博物館、他関連団体のご協力により掲載させて頂いています。著作権は当該団体に帰属していま すので、無断のダウンロードはお控えください>
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